梶賀町

ハラソ祭り

昭和三十三年市無形民俗文化財指定(行事施行者 梶賀町梶賀青年団)
歴 史  梶賀町の捕鯨の起源については明らかでないが、南隣の二木島には寛文十一年(1671)鯨三十三本の供養碑があり、 また太地神社の記録に、九木浦の捕鯨は貞享年間(1684~7)とあるから、梶賀浦の捕鯨もそのころであろう。
鯨船の祭りは、現在梶賀浦と海山町白浦の二か所に残っている。梶賀浦の祭の起源について、倉本為一郎氏 (故人、南輪内郷土史家)は、当地方の捕鯨は明和六年(1769)に廃絶しているから、そのあと捕鯨をしのんで、 銛を投げ捕鯨のまねをし、神にささげたものと思える、と言っている。
「はらそ」の語源についても明らかでなく、鯨に銛を打つ人が羽刺「はざし」で、それが「はだし」となまり「はらそ」に転訛したと言われ、 また一説には秦氏が中国より漂着して、鯨を突く漁法を教えたことに、由来するものとも言われる。
行 事  梶賀町のはらそ祭行事は、一月十五日(数年前までは旧暦)曽根町安定寺の僧を迎えて、大般若経の転読を行い、 大漁祈願と鯨供養をする。安定寺の僧は転読のあと「はらそ」船に乗って送られるが、このあと「はらそ」船は曽根浦の青年宿・ 飛鳥神社・浜に銛を突き納めた、梶賀へ帰ると、小梶賀の鯨石から突きはじめ、梶賀神社二回・浅間様・若宮様・空神様・ 竈神様・恵比寿様・稲荷様・漁協組合長宅・入札場・青年宿・浜を突き終了する。
この行事の主役は、銛を打つハダシとトモオシと竿取りの三人で、ほかに水主や経験者が同乗する。 はらそ船は最初普通の漕法である。すなわち、トモロ・アイロ・トリカジ・オモカジカイロが自分の方へ引いたとき、 他の櫓は前方へ押し交互にくりかえす。
はらそ船が突く場所に直面すると、指揮者が、「ハラソ」の掛け声をかけ、船の八艇櫓(普通七艇)は古式の速い漕法に変える。 この漕ぎ方は、トモロ・アイロ・トリカジ・トリカジカイロは自分の方へ引き、マイロ・オモカジ・オモカジカイロは前方へ押し、 これを交互にくりかえす。ハダシが舳先に飛びあがって、銛を打つまでの動作も、全て古法どおりである。 最近大般若経の転読は、地元の地蔵寺の僧が行っている。
江戸期の鯨突きという漁撈習俗を、古式のまま今に伝えるゆえに、昭和三十三年九月三日市無形民族文化財として指定された。
(南紀新報社の記事より)

<< 前のページに戻る